宿題が出た。
娘の人生初めての宿題である。
私の想定では、「お母さん!初めての宿題だよ!宿題は、コレとコレだよ!」という感じ。
しかし私の想像の上をいくのが娘である。
私「宿題ってどれなの?」
娘「わからないなあ」
私「先生、何か言ってなかった?」
娘「先生は何か言っていたかもしれないし、言ってないかもしれない。言ってたとしても、それを忘れた」
素晴らしい説明である。もはや何も言い返せないので、とりあえず笑った。
すげえぞ娘。多分、授業をほぼ聞いてないな。
さて、今朝も「学校行きたくないなあ」と言うので、「今日は図工だよ!図工が2時間もあるんだよ!」と励ました。
娘は家にいる間中、ひたすら絵を描いて工作をしているので、図工が好きに違いない。
しかし、私の想像の上を行くのが娘である。
「図工、嫌なんだよ。クレヨンで描かなければいけないけど、クレヨンだと細かいところが描けないし。それに、描かなきゃいけないものが決まっているから、好きなものが描けない」
そうか・・・・図工ですら・・・・切なすぎる。
クレヨンで描かせるには意味がある。小学一年生で、絵に不慣れな多くの子にとっては、色鉛筆やクーピーだと手に力が入らないのだ。一部の児童の緻密さを追求するよりも、大多数の児童の描きやすさを優先しているわけである。
そして描きたいものを描けないというのは、先生としては、描くものを指定しないと、何を描いて良いかわからない子がたくさんいるからである!!
しかし自分を振り返ってみると、私が図工を楽しいと思っていたのは小学校の1、2、3年生の頃の、教員免許を持たない芸術家の図工の先生の授業の時代である。
本当に楽しくて、工作の過程を鮮明に覚えている。
しかしそれ以降、小学校も中学校も、私は美術の成績が良くなかった。
中学に入ると、5段階評価で2がついたが、今現在、私は図工みたいな仕事でお金をもらっているので、学校の評価はインチキであるなと確信している。
ちなみに私は基本、体育も2であったので、自分は非常に運動神経の悪い愚鈍な人間だと思い続けて生きてきたが、平泳ぎなら2kmくらい泳げるし、今でも鉄棒で逆上がりができるし、二重跳びだって10回はできる。
柔軟でブリッジもできるし、三点倒立だって1分くらいできるのである。
きっと体育の評価の基軸が西洋のスポーツではなく、ヨガであった場合、私は優秀であったに違いない。そして運動が好きになっていただろう。
しかし『体育』や『図工』という文科省の尺度で言うと私の評価は『2』であるので、学校教育は私に、自分は絵が下手で、運動ができないというコンプレックスを与えてくれただけである。
そんなインチキに踊らされて、将来の希望を小さくしている子もたくさんいるんだろうなあと思う。
そうそう、最近は道徳に点数が付けられるようで。
それってもはや民主主義とは程遠い。
子供にとって学校は、世界の全てになりがちです。
学校は大事だけど、私は娘に、学校が世界の全てなのではなくて、世界のほんの小さな一部であるという感覚を持ってほしいと思っています。
ちなみに、娘の図工に関しては、自画像を描かなければならないようだ。
なので「自分の顔を描いた周りに、カマキリでもなんでも好きなもの描けば良いじゃん!」とアドバイスをしたところ、「怒られるかもしれないから怖い」とのこと。
怒られないと思うけどなあ・・・
なので「何か言われたら、『頭の中でカマキリのことを考えている絵です!』とかテキトーに言ったら?」というと納得していたので、多分今日娘は、自画像の周りに何か好きなものを描くかもしれないし、描かないかもしれない。