ダヴィンチ

ゲシュタルト崩壊をご存知ですか。

例えば娘が「お母さん、なんだか『ふね』という言葉をずっと『ふね、ふね、ふね・・・』と考えていたら、なんだか変な気持ちなる」と言った場合、それは私にとってはチャンスなのです。
「それはね、ゲシュタルト崩壊という現象なんだよ」と言って説明すると、娘は理解し、以降そのような現象があると「お母さん!ゲシュタルト崩壊だ!」と報告してきます。


私も多分10代の頃に、父に「文字をじっと見ていると分裂して見えてきて変になる」と言ったら「それはゲシュタルト崩壊というんだよ」と教えられ、身体に電撃が走りました。

こんなニッチな現象を研究している人がいてその現象に名前がついているなんて!
そして『ゲシュタルト』なんてイケてる単語!


「ゲシュタルト崩壊」レベルの難しい言葉を私はあまり知りませんが、とりあえずこの言葉は私にとって大きな存在なのです。

知識は言葉だと思います。

例えば家父長制の中で生きる人間が、この世で起こる性を理由とした理不尽な出来事に対して、言語化し、考えるためにはジェンダー論を学ぶことがとても有益です。
言葉がないと、不快に感じる出来事に関して、それが正当でない扱いであることも理解しづらいものです。


最近は、子育てにおいて『感情のラベリングの必要性』についての記事を読むことがあります。語彙の少ない、人生経験の浅い子供にとって、自分の感情が大きく揺れた時に、「それは悲しいんだね」とか「すごく怒っているんだね」とか、その子の心の状況の説明をその子自身にしてあげることで、自分自身の感情をコントロールしやすくしてあげる、ということ。

それと同じで、ぶつかった不思議なこと、おかしなこと、面白そうなことを整理して広げてあげることも、その子の人生を豊かにすると思います。
多分、大人は本を読むことで、自分でその行いをしているのだと思っています。



私は『真の教育ママ』を目指しているのですが、真の教育ママは子供の知的好奇心を広げることに尽力します。面白い話をたくさんしてあげたいのです。

だから私自身も面白いことをたくさん勉強しないと、真の教育ママにはなれないのです。
そして真の教育ママは、自分と向き合わないとなれない存在なのです。



でも私は自分が本を読もうとすると、娘に「絵本を読んで」と邪魔されるので、自分の本を読む時間が全然取れません。

ダヴィンチの話を書こうと思ったので、タイトルをダヴィンチにしたのに、結局ゲシュタルト崩壊になってしまいましたが、私は中途半端な人間なのでそれでいいのです。