私は駄洒落が好きなので、思いついたら人に言わずには居られません。
むかしから言い続けた駄洒落が、一体幾つあるかはもう分かりませんが
4ヶ月前に「なぜ私は思いついた駄洒落をメモしてこなかったのだ!愚かだ!!」
と突然思ったのです。
そして、毎日持ち歩くメモ帳に記録を始めました。
まず、
『ゆで卵を 茹でた孫』
『丸くするマルクス』
『万が一、漫画市』
先日、スコットランド人の男性と話していたら、彼いわく
「イギリス人モ ダジャレ ダイスキ。 デモ 日本人ノ ダジャレトハ チガウ」
らしい。
そして以下の話をしてくれました。
日本人のダジャレは非常に簡単である。『ふとんがふっとんだ』みたいに。
でもイギリス人の好きなダジャレは、もっと物語性と起承転結がある。
例えば、
「トナカイとサンタが子供たちにプレゼントを配るのにとても忙しかった。
それ故、トナカイはクリスマス中に、自分の子供たちにプレゼントを配れなかった。
サンタとのプレゼント配送業務後、トナカイはオモチャ屋へ駆けつけた。
『トナカイが オモチャ オトナガイ(大人買い)』」
・・・・そうか!
とにかくダジャレの概念がイギリス人とは違うのだ!
ということは理解が出来ました。
私は所詮ニホンジン的単純ダジャレしか操れない、単純な女なのである。
しかし私はそれで満足なのである。
『カタルシスを語る寿司』
『ミソジニストが三十路にスト』
『そのヒグラシ、その日暮らし』
『性教育なら、生協行く?』
駄洒落は本当にいいもんだ。
その他、回文にも私は興味があります。
上から読んでも下から読んでも同じ音の文のことです。
小学生の頃大好きだった中島みゆきの『よのなか ばかなのよ』という曲があります。
『上から読んでも 下から読んでも よのなかばかなのよぉぉぉ』と歌っているのですが、それが衝撃でした。
(ちなみに『女衒』という単語は、そのころ中島みゆきで覚えました)
『胃、タレカツで 疲れたい』
『砧(きぬた)のタヌキ』
『いたいけな ケイタイ』
しかし、私は一番しては行けない事を、先日してしまったのです。
今時はネットというものがあり、検索すればなんでもかんでも出てくるのです。
「世の中に、『いたいけなケイタイ』を知っている人がどのくらい居るだろうか?」
と変な事を考えてしまい、『いたいけなケイタイ』で検索してしまったのです。
するとどうでしょう。無数に検索がヒットします。
わたしは絶望いたしました。
私が考えついたと思った事は、既に世の中では使い古された回文だったです。
新鮮だと思っていた回文は、ボロぞうきんのような回文だったのです。
ネットは、危険だということが、初めて分かりました。
先日、朝日のお悩み相談で『中学生の息子がスマートフォンでネットをし続けていて心配』という相談がありましたが、相談員の岡田斗司夫が『ネットには有益な情報が溢れている。教育にも良いからそんなに心配しないで』というようなことを言ってました。
きっと岡田斗司夫にとっては有益な情報が沢山あるのでしょう。羨ましい。
ネットというものは専門性が少しでも高くなると、検索しても有益な情報が全く得られなくなると、本当に思います。
ただ、私のレベルのパソコン能力ですと『パソコンに関する必要な情報』は探せば大抵出てくるので、パソコンはパソコンで自己完結しているなあと思うのです。
お悩み相談といえば、先日BSで『久米宏のニッポン100年物語〜人生相談にみる日本人〜』という番組がやっていました。
私は、中学生の頃から読売新聞の人生案内を毎日読むのが日課でした。
番組内では、戦前の読売に寄せられたお悩み相談を紹介したり等、エキサイティングな内容でした。
やはり歴史があるだけ、人生相談に関しては朝日より読売の方が遥かに上です。
番組内では、お悩みの相談員たちの会議の模様まで映っていたのです。私は感動しました。
『大正時代の身の上相談(ちくま文庫)』という本が出ているのですが、そこに数々の大正時代のお悩みと、その相談員の回答が載っていて面白い本なのですが、解説は小谷野敦という男なのです。(小谷野敦は私の学生時代に非常に流行った文学の人です)
ここ数年、私はアマゾンで本の買い物をしようとすると、その小谷野敦がしょっちゅうレビューに書き込んでいるのです。
小谷野のレビューで『酷い』とあったので、買うのをやめた本もあるくらいなのです。